農薬の安全と危険 同じものを見ても人によって見え方が違う
農薬を使って育てられた一般的な栽培による野菜。
スーパーで買えることができる野菜は、おそらくほとんどが一般的な栽培に育てられたものです。
野菜の種類によって農薬の使用量は違うのでひとくくりにすることはできませんが、最低限の限りなくゼロに近い農薬で育っている野菜もあれば、タネを播いてから40回も農薬を散布して育てられている野菜もあります。
農薬の使用量も、使用回数も、野菜によってバラバラです。
もちろん産地によっても基準が違ったりするので、虫や病気が広がりやすい暖かい地域では農薬の使用回数は増えますし、逆に寒い地域では虫や病気の害が少ないため農薬の量も少なくなります。
このように日本国内を見渡しても、農薬をひとくくりにして語ることはできません。
ひとつだけ言えるとしたら。
たいていの農家は、国の基準を満たした農薬を適正使用している。
ということ。
国が基準を定めた農薬を、適切な濃度で定められた約束事にしたがって使用しています。
(もちろん不正をしている農家がゼロだとは言いませんが・・・)
ではここで。
国の基準に沿って育てられている農産物に対して、
それは危険だ!
と主張する人と
食べても大丈夫、国が保証している
と主張する人がいるのはなぜでしょうか?
同じ野菜を見ても、安全だという人もいれば危険だという人もいる。
なぜなんでしょうか?
今回はこのあたり、目線の違いについて書いていきます。
だまし絵は見る人によって見えるものが違う
だまし絵とかトリックアートとか呼ばれる作品をご存知でしょうか。
見る人に目の錯覚を起こさせるアレです。
だまし絵のなかでも特に有名なのがマウリッツ・エッシャー作「滝」です。
これについて説明はいらないと思いますが、滝の落下地点からジグザグに曲がりつつ画面奥へと流れ下りていく水路がいつしか最初の滝に戻ってしまう。
というもの。
この絵については、誰が見ても錯覚してしまいますよね。
ところが。
次のだまし絵を見てください。
ルビンの壺という作品ですが、黒い部分に注目すると壺のように見えます。
ところが白い部分に注目すると人の横顔が浮かんできます。
一枚の絵の中で、注目するところによって浮かんでくるものが違うというトリックアートです。
これはつまり、同じ絵を見ているのに
「この絵には壺が描かれている」
という人もいれば
「この絵には人の横顔が描かれている」
という人もいるということ。
どちらが正解ということではなく、なにを見るのかによって答えが変わるという事実が重要です。
農薬も受け取る人の解釈によって結果が変わる
じつは農薬についても、だまし絵と同じようなことが言えます。
農薬は危険だという人がいる一方で、農薬は安全だという人がいる。
同じように使用された農薬であっても、それを判断する人によって危険なのか安全なのかが決まってくるんです。
なにが違うのかといえば目線の違い。
判断する人のなかにある基準の違いによって、同じものを見ても結果が変わってきます。
どちらが正しいのかは重要ではありません。
大事なことは。
自分はどのように考えるのか。
どう判断するのか。
自分の中に、しっかりとした価値基準を持つことがなによりも大切です。
農薬については●●だから危険である。
と自分自身で判断する。
食品添加物はここまではOKだけど、これはだめ。
と線引きをする。
物事に審判を下すための基準を自分の中に持つべきだと思います。
一から勉強して基準を作り上げていくことは大変な作業ですので、だれか信頼できる人がいるならその人に判断をゆだねるのもひとつの方法でしょう。
農薬のことならこの人が言うことを信じよう。
食品添加物ならこの人の判断に任せよう。
原発に関わる問題はこの人の意見を信じて委ねよう。
いろんなことを深く知るには相当な時間がかかりますから、ある程度は人にゆだねるべきだとは思います。
でも。
最終的には自分自身で判断できるように時間をかけて勉強してほしいですし、本当に安心を得るためには自分で答えを導いていくしかないような気がしています。
直接会ったこともない私の意見、信じられますか?