人の健康から野菜の健康を考える その2
前回は人の健康について書きました。
人の健康から野菜の健康を考える その1
健康の基準は
本人が健康だと感じるならそれが健康
その環境で満足した生活が送れているかどうか、ということが健康に直結するので、日本人であってもマサイ人であっても健康の基準は同じ。
違うのは置かれている環境です。
という話でした。
これを野菜について考えていきます。
まずは野菜にとっての健康とは何か、ということについてです。
動物と植物を同列に並べていいのかという問題はさておき、もう一度スタートから考えます。
WHOからみる健康
世界保健機関WHOは健康について次のように定義しています。
Health is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmity. 健康とは、病気でないとか、弱っていないということではなく、肉体的にも、精神的にも、そして社会的にも、すべてが満たされた状態にあることをいいます。(日本WHO協会訳)
野菜にとって肉体的にも精神的にも社会的にもすべてが満たされた状態って・・・。
よくわかりませんね。
僕なりの解釈をするなら、それぞれの野菜の祖先が住んでいた場所、つまり原産地で育ったときにWHOがいうような健康な状態になるのではと考えます。
たとえば。
東南アジアのような熱帯気候で生まれたナスは高温多湿を好むので、熱帯気候で育てばナスにとってかなり快適に過ごせることは間違いありません。
そして高温多湿な日本の夏の気候はすごく合っています。
ただし春や秋はナスには涼しすぎるので、夏だけがナスが健康で過ごせる環境ということになってしまいます。
日本では夏だけに限れば、ナスは肉体的にも社会的(気候環境)にも満たされていると言えますね。
精神的にどうかはちょっとわかりません。
こういう例はじつはほとんどの野菜に当てはまるんです。
野菜は長い年月をかけて品種改良をされてきた植物で、しかも原産地が日本という野菜はセリ・ミツバ・ワサビなど数えるほどしかありません。
ほとんどの野菜は外国が原産地です。
トマトは南アメリカ、キャベツは地中海沿岸、スイカはアフリカ、人参は中央アジア・・・。
それぞれの野菜において、原産地の気候に影響を受けたであろう特性を目の当たりにする機会は少なくありません。
(脱線してしまうのでこの話はまたの機会に)
だから、原産地の気候で育ったときに野菜が健康であると言ってしまったら、日本で育てる野菜はほとんどすべてが不健康である可能性が出てきてしまいます。
正確にいえば、トマトなら6月と9月、キャベツなら5月と10月、人参なら4月と11月というように原産地に似た気候(じつは気温だけで気候は似ていない)に近づける期間が限られてしまいます。
つまり日本で野菜を育てると不健康に育つ期間がほとんどということです。
もしかしたらそうなのかもしれないけど、そうは思いたくないですよね。
だって、健康な野菜だけを食べたいと考えて追求していったら、ほとんどの野菜は日本では育てられない。
食卓にのぼってくる野菜はセリ・ミツバ・ワサビだけ、なんて耐えられませんよ。
別の視点から考えてみる
さてここで、僕が表現した健康について思い出して下さい。
本人が健康だと感じるならそれが健康
骨折していても、一時的に風邪をひいたとしても、たとえがんであったとしても、
栄養失調でもなく、過度な肥満でもなく、適度な運動とバランスのとれた食事、充分な睡眠があって、仕事では目標に向かって突き進んでいるし家庭でも不安なく家族との関係が良好、適度なストレスの中に身を置いていて公私ともに充実している状態。
これを野菜という立場からみて書くと
葉や茎が折れてしまっても、菌やウイルスに感染して病気になっても、肥料養分が適切な量を吸うことができて飢餓状態でも過剰養分状態でもなく、根っこを素直に広く張れて、夜はちゃんと暗く日中はしっかり陽があたり、茎葉をしっかり茂らせて果実を必要な分だけつけることができている、植物として子孫繁栄につながる行為がしっかりとなされている状態。
という表現になります。
これだと、置かれている気候によらないですよね。
マサイ族と日本民族の例で書いたように、原産地だろうが日本だろうが置かれている環境が違うだけで健康の基準は同じ。
野菜が野菜らしく育つのであれば健康だろうと。
そういうことです。
その農地の、その土壌条件や気候によって、そこに育つ野菜の生育は違って当然。
豊かな土地であればそれに見合った生長の仕方があるし、痩せた土地にはそこに合った育ち方をしていきます。
それぞれの育ち方はあるけど、両者とも健康だったりします。
どんなに恵まれた環境であっても、どんなに厳しい環境であっても、その環境に合った育ち方があるということです。
神の手をもつ生産者
こういった健康についての見方があるうえで、農業生産者はその土地の生産性を高めて野菜の収穫量を増やしていく努力をしています。
アフリカのマサイ族のような身体・生き方が素晴らしいと考えて野菜にもそのような生き方をさせていく生産方法もあるし、食にほとんど困らない恵まれすぎた環境で肥満気味に育った野菜がいいと考えて育てていく方法もあります。
結局のところ、どう育てていくかは生産者にゆだねられますし、生産者が健康だと思って育ててしまえば物言わぬ植物・野菜はそのまま育っていくしかありません。
野菜からみれば、与えられた環境でなんとか生きていくしかないんです。
本人が健康だと感じるならそれが健康
という僕なりの定義では、本人の気持ちを聴くことができないので、健康に育っているかどうかは生産者の考え方や観察力によってしまいます。
だからこそ、野菜をどう育てたいのか、どう育ってほしいのかを明確にする生産者の姿勢は大事です。
野菜にとっての健康とはなんなのか、人間の勝手な都合で品種を改良し、人が収穫して食べることを前提にして命をつないできた野菜という植物。
彼らの健康を手の中に握りしめている生産者だからこそ、野菜の健康についてはずっと考えて続けていきたいと思っています。