野菜の安全基準は心の中にある

安全基準とはなにか。
という書くのをためらうような話を進めていきます。
ここで書かれることに対して賛成意見、反対意見それぞれあるだろうと思いますし、それぞれの立場や考え方で言いたいことはあるでしょうけど、ここでは誰に肩入れすることもなくなるべく中立の意見として書いていくつもりです。
といっても科学的根拠を示すようなことはしません。
あくまで専門家ではなく農家の意見ですから。

安全基準という言葉。
安全について可能な限りリスクを減らすための規制基準
とされていますが、これの意味するところは科学技術に基づいて確率論や統計学によって導き出された
安全ライン
がどこかに引かれているということです。
そして絶対に忘れてはいけないこと、それが

危険をゼロにする「絶対安全」は存在しない

という前提があることです。
この前提を考えないで、もしくは無視して安全基準について話をしてもまったく意味がありません。
絶対安全が存在しないことを頭に入れながら最後までごらんください。

 

ADIと残留農薬

農家が書いている記事ですので、当然ですがここで書くべきことは農業や食に関しての安全基準についてです。
そして、みなさんがおそらく気にするのは
農薬の安全性、安全基準
ですよね。
本当のところはどうなのか、どれくらい安全でどれくらい危険なものなのか。
非常に気になるところだと思います。
農薬が危険だという認識が世間に広まっているからこそ、有機農業が推進されたり有機野菜を食べたいと思う人がたくさんいたりするわけですが、ここには誤解と認識不足がかなり含まれてしまっています。

農薬の安全性についてひとことで言い表すなら
一般的には安全である
ということになります。
それは国が定めた安全基準であるADI(許容1日摂取量)と残留農薬基準に基づいています。

ADI(許容1日摂取量)とは
その農薬を、一生涯に渡って仮に毎日摂取し続けたとしても危害を及ぼさないと判断できる、許される一日当たりの摂取量
ラットやマウスなどの動物による毒性試験であることや、人によって毒性に対する反応が違うことなどを考慮して、大多数の人に危険が及ばないような数値が決められています。

残留農薬基準とは
病気を抑制したり虫を退治したりする目的で使用された農薬は、目的を果たしたあとすぐに消えてなくなるわけではありません。
その残った農薬が、人の健康に害がないように定められている数値基準が残留農薬基準です。

あんまり詳しく書いてもどうかと思いますので、興味のある方はご自身で調べてみるといいでしょう。
実際はかなり厳しい基準だと言えますが、
安全だといっても結局のところ人体実験していないんだから不安だ
複数の農薬が混ざったときの反応で毒性が膨れ上がったりしないか不安だ
そもそも国の基準なんて信用できない、どこかで不正が行われている可能性は否定できない
など、不安要素を挙げていけばきりがありません。
おそらく農薬を毛嫌いする人は、農薬そのものに対して不安があるというよりはそれを扱う人に対して、その基準を定める人や国に対して、不安を抱いているんじゃないでしょうか。
農薬の安全性についてどこまで議論しても話が交わらないのは、こういった小さな不安までを取りこぼさずに拾うことができないからです。
でもムリですよ、重箱の隅をつつくような不安要素をすべて拾い上げるのは。

たとえば。
生物の生存に欠かせない水は、飲みすぎると体内のナトリウム濃度が下がって死にいたることもある危険なものです。
塩だって生存には欠かせない大切なものですが、一気に摂ると死にいたるほど危険な物質です。
基準を守らなければどんなものでも危険になる可能性がある、というのは農薬においてもこれらと同じことが言えます。
だから重箱の隅をつつくのは議論としては不毛というか、かなり難しいものがあるように感じます。

 

安全の線引き

足元の白線
ここで忘れないでほしいのが、そもそもこういった安全基準が

危険をゼロにする「絶対安全」は存在しない

ということを前提に定められていること。
これは大前提なんです。
ここを無視してしまうと安全基準なんて作れないといってもいいくらい大事なことです。
通常の安全基準では許容量を超えてしまう、化学物質過敏症の方にとっては農薬は危険なものかもしれません。
うっかり棚から落としてこぼしてしてしまった農薬によって、農家が被害を受けることも否定できません。
もっと完璧に害虫の発生を抑えたいからといって、基準を超えた過剰な濃度で農地に散布してしまう農家がいるかもしれません。
農薬の生産工場内で、意図的に別の危険物質を混入しようとする人間がいるかもしれません。
さまざまな可能性が想定されます。

けど、どこかで線を引かないといけませんよね。
確率論や統計学を持ちだして、大多数の人にとっての安全基準をつくらないといけません。
100%の人に100%安全な基準ではないことを認識する必要があります。

安全基準は心の中に持つ

いつも言っていることですが、国が定めた基準が信用できないのであれば、信頼できる人を探してその人の意見を信じるしかありません。
がんばって自分で必死に調べて勉強して、知識をもって安全を確保していくことも大切ですが、そこにあなたの大切な貴重な時間を使ってしまうのはもったいないとは思いませんか?
食の安全についてはこの人が言うことを信じよう
環境問題についてはこの人に従おう
医療全般のことはこの人の意見が自分に合っている
というように分野ごとに信じられる人がいれば、あなた自身の貴重な時間を無駄にしなくてすみます。

 

単純に1か0かで決めてしまうのは非常にもったいないことです。
基準の10倍もの濃度で食べ続けても生涯なにも起こらず健康で生きていける人もいれば、すべてに気を付けていて安全なものを選び続けていても健康を害する人だっています。
食べたものだけではなく、運動習慣だったりストレスだったりさまざまなことが健康に影響します。
非常に個人差が大きいんです。
だからこそすべての判断は自分に委ねられますし、自分が辿ってきた道によって結果が変わります。
他人と同じ道を歩いたからといって同じ結果になるわけではありません。

大事なことは、すべての判断に責任を持つこと。
調べてみたうえで、それが自分にとって安全だと思うなら食べたらいい。
子どもにとって安全だと思うなら食べさせたらいい。
それでもし、なにか健康に害があったとしても誰かのせいにしない。
自分が招いた結果だと受け止める。
こういう姿勢が大切だと思います。

安全だと判断する基準は自分自身にあります。
世間で公表されている数値はあくまで目安。
信頼できる人の発言もあくまで目安。
自分の心に問いかけて、それが安全だと思うなら、それでいいんです。
最終的に安全かどうかを決めるのは自分自身の心です。

 

 

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